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●リボー2 Ribot

伊、仏、英で16戦16勝
主な勝ち鞍:凱旋門賞(2回)、“キングジョージ”、伊ジョッキークラブ大賞、ミラノ大賞、エマヌエレ・フィリベルト賞

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レベルがあまり高いとは言えないイタリア競馬ですが、時にすごい馬が誕生します。
 日本で輝かしい種牡馬成績を残した凱旋門賞馬トニービン(1983〜2000)も、そんなイタリアで生まれました。
 そしてさらに遡ること30年ほど前、同じイタリアに伝説の名馬リボーの物語がありました。

1956年の弟35回凱旋門賞(仏GI)。
 このレースでは、1頭の鹿毛馬が、観衆の注目を一身に集めていました。
 大柄な馬たちに混じった子馬のように小さな、その馬の名はリボーといいました。
 15戦全勝で迎えたこのレースで勝てば、タンティエーム以来、史上5頭目の凱旋門賞2連覇となるのです。しかも未だ無敗での連覇達成記録はありませんでした。

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リボーは幼少時代、その馬体の小ささから「イル・ピッコロ(ちびっ子)」と呼ばれていた。期待が薄かったことからクラシック登録すらされなかったと言われていますが、リボーがクラシック登録をされなかったのには諸説あります。
登録時、まだ馬体が成長していなかったからとか、早くから外国を睨んだローテーションを想定していたなどです。

 しかし、テシオがフランスのある二流画伯の名から名付けたという点なども考え合わせると、確かに最初はこの小さな馬に期待していなかったというのが、本当のところではないしょうか。

成長するにつれテシオはリボーに対して他馬とは違うものを感じ始めます。
調教で引き運動していたデビュー前の当馬を見て、テシオはこう言いました。
「分からない。どうにも分からないけど、この馬には”何か”がある気がする。憶測だが、将来名を轟かす日が来るのでは・・」
テシオ氏はこの直後85歳の生涯を閉じており、実際にはリボーの活躍、そして自身の悲願であった凱旋門賞制覇そして連覇を見ることは出来ませんでした。

リボーは1954年7月にイタリアでデビューし、2歳時は3戦3勝。デビュー2戦(1000m、1200m)を逃げ切り勝ちした後、イタリアの最重要2歳戦グランクリテリウムでは距離延長(芝1500m)を意識して抑える競馬をしたのが裏目に出て折り合いを欠いてしまい、生涯唯一の苦戦となる頭差での勝利でした。

リボーは、稀代のくせ馬という異名をもらっています。このレースでは騎手が抑える競馬をしたので気を悪くしたのです。調教では助手を振り落とし、レースでは騎手のことは一切聞かずに我が道を行くという馬でした。しかし、とても意志の強くて、馬にまかせればいつも素晴らしい結果がついてきました。

 3歳時は6戦6勝。休養明け緒戦のピサ賞を6馬身差で勝つと、エマニュエルフィルベルトゥ賞をなんと大差勝ち(10馬身)で収め、ブレンボ賞(1馬身)、ガルバニャーテ賞(8馬身)、ベサナ賞大差勝ち(11馬身)と破竹の快進撃。

最大の目標である凱旋門賞に出走。単勝1.4倍の期待に応えて好位追走から残り400mで先頭に立ち、2着のボウプリンス(パリ大賞・英セントレジャー3着)に3馬身の差を付けて完勝。
さらに、イタリアに帰国してのジョッキークラブ大賞では、15馬身もの差をつけての勝利をおさめました。

4歳になるとグィリオヴェニノ賞を4馬身差、ヴェチュオーネ賞12馬身差、ガルバニャーテ8馬身差の勝利とその強さはとどまることを知りません。
イタリアの4歳上最高峰レースのミラノ大賞も8馬身差。キングジョージIV&クインエリザベスSに出走すると道悪も苦にせず、当時レース史上最大着差となる5馬身差で圧勝しました。
その後イタリアでピアツァレ賞を8馬身差で勝ったあと、引退レースの凱旋門賞も、2着の愛ダービー馬タルゴーに6馬身の差をつけて圧勝。
史上初の凱旋門賞連覇を達成しました。

こうして、リボーは16戦全勝の輝かしい成績を残して引退しました。
その後イギリス、イタリア、アメリカで種牡馬生活を送りました。

リボーは2頭の凱旋門賞馬を輩出するなどまずまずの成功を収め、名種牡馬となったグロースターク、ヒズマジェスティの全兄弟やトムロルフの活躍などによってリボーの血は後世に伝わりましたが、テシオ氏のもう一頭の傑作、ネアルコほど大きな影響を与えるには至らず、1972年に20歳で亡くなりました。

リボーが引退した後、リボーに続いて史上6頭目の凱旋門賞連覇を達成した馬が現れました。その名もアレッジド。リボーの曾孫でした。
 
リボー系は気性的には癖のあるものも多いが、大舞台で特に力を発揮する底力が特徴で、ノーザンダンサーやミスタープロスペクターなどのいわゆる「時代の主流血脈」ではないものの、名馬の血統中のスパイスとしてその存在感は計り知れないものです。
 
競争成績での代表産駒は、アメリカではベルモントSやトラヴァーズS・ハリウッドゴールドCなどを勝ったアーツアンドレターズ。ヨーロッパでは、キングジョージ・エクリプスS・英セントレジャーなどを勝ったラグーサなどがいます。

そして、日本に入ってきているリボー系の血は、種牡馬として繁栄したヒズマジェスティ(1982年北米リーディングサイヤー)、グロースターク(名種牡馬)、トムロルフ(プリークネスS)などに由来しています。

テシオが自分の生産馬の中で最も優れている、と考えていたのはカヴァリエレダルピノという馬でした。この馬はミラノ大賞という大レースを含め5戦5勝という戦績を収めていたものの、馬体などに見るべきものはなく、人々はさほど高い評価を与えていなかったと言われています。

しかしテシオはこのカヴァリエレダルピノの産駒として名馬ベルリニを生み出し、さらにベルリニはイタリア・ダービー、ミラノ大賞などを制したテネラニを輩出し、そしてイギリスに売却されたテネラニはリボーの父となりました。

いわばリボーはテシオ氏の信念の結晶というべき存在であり、テシオ氏のカヴァリエレダルピノに対する評価はズバリ的中していたわけなのですが、テシオ氏はリボーの活躍を見ることなく、リボーが3歳となった1954年、その輝かしい人生に終止符を打っています。

リボーは、父テネラニ Tenenani も母ロマネラ Romanera もテシオの生産馬。リボーが英国産となっているのは、母ロマネラ Romanera が英国滞在中にリボーが生まれたことからです。種牡馬としてのリボーはイギリスで1年、イタリアで3年供用されたあと、1961年にアメリカへ渡っています。供用期間はアメリカが一番長く、直仔の活躍馬は欧州から多く出ました。1963、1967〜68年、英国リーディングサイアーになっています。

その後、1977〜78年、曾孫のアレッジド Alleged が凱旋門賞2連覇を達成しています。

リボー.JPG
posted by 楽天馬2 at 22:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 競走馬達の物語
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